さむしんぐ〜何かしら〜

映画とテレビと本と旅と日々のいろいろをつらつらと述べます。写真も撮るよ。

五月三十日

 

今日は朝から晩まで学校の用事があった。

幸せだったのは大学の100円朝食。

サバの味噌煮とご飯と味噌汁ついて100円。幸せ。

朝活っていいね。ゆっくりご飯食べることでいいいちにち始まったなーって思った。

 

 

読書はできなかった。

今日学んだのは、netflixの遺伝子組み換えのドキュメントみた。

遺伝子組み換えが進んできて、遺伝に関わらない肉体の情報と遺伝に関わる情報を扱うかどうかで倫理的な側面の議論が大きく違う。

 

遺伝に関わらない臓器提供などの操作は行われており、医療として使われている。

問題となっているのは遺伝的に関わってくる箇所。

デザイナーベイビーは遺伝的な情報を抽出し、目の色や肌の色、重さなどの情報などをすでにゲノムから見つけることができ、選択することが可能となってきた。

障害の有無がわかるようになってき、障害を発見した9割が堕ろしている。

このような現状に小人症の人たちは「自分が病気だと思ったことはない。誇りだ。社会がそう思っているだけ。多様性はどこに行くんだ」とおっしゃっていた。

 

またデザイナーベイビーが可能となったら、貧富の差が広がるとも言われている。遺伝子を扱うのは高額で富裕層が主な顧客となった場合。優れた子供の情報を選択し、出産することで、さらに貧富の差が拡大して行く。

映画ガタカのような未来が現実的になっている。

 

 

あとお金がない。

もっと計画的にお金を、、、、。

お金を使うのは物買いたいからじゃなくて、お金を使いたいだけ。消費することでストレス発散。

あと久々にいつもと違うアクティブ17のプレイリスト聴いてたら、久々でめちゃめちゃよかった。

 

書くことない!もっと日常的にメモ取ろう。日記かけてよかった。写真もとろ。

 

albusってアプリが良かった。自分の写真を毎月8枚印刷してくれる。送料の216円だけかかるけど。

写真を選んでて思ったのが、集合写真好き。なんかかけがえのない感じがやばい。エモい。寝る。

五月末まとめ

メモ:5月28日〜

○映画

恋は雨上がりのように

何かに一生懸命になるのは眩しい。未練を残すって言うんじゃなくてまだ執着している。陸上、執筆を捨てなかった勇気。執着。

やはり節度を持った大人はかっこいい。でも相手の気持ちはどうすればいいのか。難しい話かも。

自分も目を輝かせてドキドキしたい。全部捧げられるような人。

監督失格

死んだav女優に関する作品とともに、監督と女優の思い出を振り返り、最新作を撮ろうとしたところ死んでることが確認され、死亡が確認された瞬間の映像は止められてたが、5年後公開していいことになって、監督が編集を始めるのだけれど、なかなか気が進まない。よくよく自分の気持ちを考えるとこの最後の女優との作品を完成させること=女優との別れ だと感じていることに気づき。泣きながら「お別れしたくない」と言うシーン。

「死んだら忘れられちまうんだぞ」と言う女優の母の言葉。やりきれない母親が生々しかった。本当に「どうして」って言葉が前のめりで、救ってやれなかった自分を責める感じ。言葉にできない感じ。言葉にすらできない。悲痛。「人間は二度死ぬ。死んだ時と忘れられた時」

 

関係ないけど

自殺はそれまで信じて助けてきてくれた人の全てを裏切る行為。人に迷惑かけたくないって死ぬ人が一番迷惑でわがまま。一方的だし。ずるい。死ぬなんてずるいって言うのはそう言うことなのかな。

 

○漫画

恋は雨上がりのように

映画同様の終わり方。映画の方が好きだった。まだ二人が前向きにくっつく可能性を残しながら終わった。

・本

十角館の殺人(途中)

・映像

ドラマ:宮本から君へ

「自分がかっこいいと思うものをそうじゃないっていう人間に認めさせたいです」

 

モノガミーのドキュメント

人類は農地を持つようになってから、自分の領地をしっかりさせ、モノガミーになっていった。繁殖は本能だが、結婚は制度だ。罰せられるのはおかしい。女性は一人の男性に尽し養うことで、金と食事を見返りとして受けた。モノガミーなのは人以外にいない。制度によるこの仕組みは歪みが生じているのかもしれない。モノガミーの歴史は浅く数百年。ある部族では、モノガミーは存在せず、部族の子供として皆を愛する。自分の子はわからない。あらゆるものを子育ても共有している。ちんこは他のものの精子を書き出すためあのような形状になっており、後半の人が有利らしい。

 

・日常

今が楽しければいいっていう信念を持っている。人それぞれでいいの?心配するのはお節介なのか。それはそれでいいのかもしれない。でも心配。

 

某社に内定をもらった人に、某社の経営がやばいニュースを見て「某社って経営大丈夫?」って言いそうになった。相手が嫌な気持ちになるに決まっているのに思いやられなかった。なんでこんなこと言おうとしたんだろうか。嫌いな人でもあるまいし。

 

ありのままの言葉を言うのはとてもこそばゆい。人間みんなありのままの言葉を何重にもおおって言葉を発する。ありのままを言える人になりたい。恥ずかしくない。

いざ新生活

 

明日から新生活が始まる。

 

23年生きてきてわかったことが多くある。

 

時間にルーズなこと

頭を使わないことが好き。

でも頭は使いたいと思っている。

やらなきゃいけないことを先延ばしにする。

やらなきゃいけないギリギリまでやらない。そして60%でしか取り組まない。

今何のためにどうなっているかがわかっていない。

 

こうして誤魔化し誤魔化し、楽な方楽な方へと流されて、今である。

鋭い大人には見抜かれる。情けない。100%で生きる。

情けない。もっと自分のことを俯瞰して、どうなりたいか。どんな人間になるのかを考えたい。

そのためにも日記であったり、決まったルーティンを作りたい。

 

 

こうなりたい

・時間に余裕を持つ

・しっかり物事に対して余裕を持つ

・ルーティンを決める

スマホに依存しない。

・しっかりと地に足をつけて、自分は今何をやっていてどうなっていくのかをしっかり考える。人にまともに喋れたことがない。

・家以外で作業は行う。余分なことを家でやる。

 

こうやって思考を整理していくことが必要

思考してる人がすごい。えらい。

 

アートの人は日常を客観してるなって感じで、それを見た上で思考している。

それはえらいと思う。

 

 

見習わなきゃ。どんなことでも良いんだよ。アイデアでも、ビジネスでも。考えて客観しながら過ごすのがすごい。それを書き留めていこう。

 

その客観を文にすると、スカしてる、斜に構えてるって言われる世の中だけど。

どう生きるか。それを相手に見せるってなった時に少し伝え方を工夫するのか、それともそんなこと言う人とは距離を取るのか。

 

 

自分はコミュニティーに応じて自分の役割が違うことに気づいて、しっかりしてる人の中ではボケるし、力を抜いている。でも全員しっかりしてないような中だとツッコミに回っていた。その中でツッコミに徹するのだが、ツッコミに対する対応が普段と違う為に嫌な気分になる。気を使わず生きやすいように生きる。

突っ込まない。

 

 

アーティスティック。

僕は最近アートというものを知った。

訳あってアートの現場でボランティアをしたんだ。

 

アートっていうと正直なんかよくわかんないもの作って、よくわかんない人がよくわかんない評論下して、それが巡ってるもんだと思ってた。

 

 

 

 

 

.....その通りだった。結局その通りだなぁ

 

でも見方がチト違う。それはよくわかんないものなんだけど、それに対して考えを巡らせる揺らぎが楽しいんであって、理解できないものを理解しようとする文化なのかなって思いました。

人間全部わかっちゃうとつまんないし、好きじゃなくなると思う。

それが人間で、でも答えが知りたいの。

 

答えが出たら気持ちいし、ストレスから解放される。でも一番はその過程が楽しい。

アートはその過程をずっとやっている感じ。

 

なんかみんなと話をする中で理解できない行動を取る人に対してイライラして、「なんなのあいつ?空気読めないし、モラルない」ってなるけど、

アートはモノだ。どんなに理解できないものでもイライラしないし、怒ったりしない。時折「何この絵。つまんな、意味わからんわ」って思考を放棄して馬鹿にする愚か者がいるけど、自分が愚かって言ってるようなものじゃないか、気づかない。しかもその強く、人に気が使えない発言でなんとか優位に立っている気がする。下に見た発言をすることで上にいると錯覚する。上なんてないのに。偉そうに威張ってる奴が偉く見える感じがやだ。

こうやってあいつは愚か者だって言っている自分が一番そいつを見下しているのかも。

だから愚か者って言わないで「威張りんぼう」って呼ぶ。あくまで個性。

 

まあ「威張りんぼう」は嫌い。好き嫌いは見下すとかじゃないから良いと思う。

威張りんぼうがいるグループにはそいつを取り囲み、中心というものができる。だから中心があるような団体は好きでない。独立して相手を尊重した関係が一番健康。でもなんか相手のこと尊重できてない人、自分の話ばっかりな人は好きでない。でも威張りんぼうじゃないそいつは可愛いから愛せる。

 

 

そんなことじゃなくアートだ。アートの現場には威張りんぼうは来ない。来たらやだ。平気で傷つけそう。それくらい脆いと思うアートは。そう僕は考えるけどアーティストはそんなの気にしないくらい自分の道を行ってるから傷つかないかも。サラッとかわしてみせると思う。実にかっこいいだろうな。

アートは理解出来ないものであっても、人でない為にイライラしないので伸び伸びと理由を考えられる。これが客観というか自分とは切り離されたものであるモノとしてあるから成せるものであって、これが自分と同じ社会に影響し合っている人間という存在であるから人にはイライラするのではないのだろうか。

 

だからアートは健康って話。

 

 

 

女子必見!「〇〇君の為に〇〇覚えて来たんだ♡」の危うさ

 

 

最近私が好きなサッカーに対して、彼女が一生懸命努力してサッカーについて学んで来ました。

頑張ってくれて嬉しい!!

思う気がするが、そんな甘くありません。

 

 

 

 

逆に「え?何頑張ってんの?、、、そうじゃないんだよ。」となりうる危うさを兼ね備えているのです。

 

 

 

恋愛とはいかに

 

【相手をナメず、ナメられず】

 

を保てるかが勝負だと思っており

相手のために擦り寄って何かするということは相手と対等ではなくなること、即ちナメられるようになってしまう危険性が大いにある!!!

 

 

 

なので、勉強するには大いに結構なのですが、如何に勉強を悟らせないか。あたかも自分の教養の一部として知っていたと振る舞う事が大切だと考えます。

 

何を言ってるのでしょうね笑

そんあ気がしたから書きました。では!

 

世の中には女の3Hという言葉があるそうで

・ほっとく

・ホッとする

・ほっとけない

を兼ねそなえるといいらしく。この 「ほっとく」 は絶対大事だなって、しみじみ思いました。

 

 

最近、大学四年生が思うこと

やっぱ大学四年生って1番偉いな。

大人になったら成果や、年齢様々な基準で上下関係が決まる。しかし、学校では学年が全てだ。よって大学四年生は1番偉いのだ。

ついに上り詰めた大学四年生。その景色は社会へ出なければいけないという絶望。それだけだった。

キャンパスに行けばキラキラして「サークル今日いくー?」という会話。

テストの直前には「まじバッチリ!まじ緊張して来た。頑張ろうな」と一年生が張り切っていた。もう大学四年ともなると一切の張り切りはない。「まじ勉強してねえ!やべぇ!」と言う輩もいた。大学になってまで勉強してない自慢は逆に愛おしすぎる。絶対友達は少ないであろう。四年生にもなると色々客観で見えて来て、いやだなあ。現実を生きたいなーっておもった。

なんか一年生てだけで、全ての行動を馬鹿にしてしまうほど客観してしまう。そういう客観した見方によって、行動を抑制し機会や経験を奪ってる気がする、、、。

最近もしかしたら無駄になる努力を全く以って行なっていない。自分の心の中で勝手に結論づけて、それを怠る。それをしない時間何をするかというとぼーっと動画を見てるだけだ。ぼーっと動画をみて、あいつらは頑張ってて俺はこんなダラダラしてる〜休みサイコーって思ってる。でも同時に負い目も感じる。でも自分は都合がいい人間だから前者ばかり意識し、1日の終わりに不意に後者を意識する。イライラするから寝て忘れる。なんて虚しいんだ、

勿体無い。客観はいらない。客観のない世界とは、まだ自身の知識が追いついていない世界だ。

つまり、全力で何かに取り組むには新しい未知の領域に足を踏み入れるべきだ。

今日思ったこと

・人は何を目的に喋るか?1人で相手の反応を見ずに喋り続ける人の目的とは?僕は新しい意見を得るためや人を笑わせる為に喋ります。

・キレる人のメカニズム。自分は全然イライラしないし、キレない。キレたら馬鹿みたい。

・最近何やってるのって言われて堂々言えるような毎日を過ごしたい

・弱い人のエンタテイメントは周りのみんなで助ける参加型エンタテイメントになりうる。

・カバー曲を録音したい。

クラウドファウンディンクしたい。毎日一案考える