さむしんぐ〜何かしら〜

映画とテレビと本と旅と日々のいろいろをつらつらと述べます。写真も撮るよ。

「割り切り」と「憎しみのクラウドファウンディング」

そんなわけで,社会人になったわけで。

リモートで開催された新入社員研修.「今週のお題!」と課題を出されて淡々とこなす。これもこれでいいんじゃん。こっちはラク
でも社員はみんな気遣って「新入社員なのにいきなりリモート可哀想・・・」って言われるから可哀想な顔しとく、「そうっすね、しんどいっすね」って顔しとく。

なんか新入社員のうちから目立つために、質問かましておくか!とも毎日思っては、めんどくさくてYouTube観て。「あれだな、こんな媚を売って評価されずとも実力で評価されればいいもん!問題ないもん!」と言い聞かせて納得させて寝る。
色々と割り切ることが多くなった。

 

自分は割り切りの名手だという自負がある。

例えば、セールで靴を買いすぎた時も「靴っていつか買うものだし、向こう2年靴買わないと思ったら問題ない」。
「明日は朝ランニングして、英会話もして、夜は曲とか作ったりして充実させるぞオ!」とか思ったりする。何もできていない夜に「いや、何でそんな頑張んなきゃいけないねん」と簡単に割り切ることもある。様々な粗さの割り切りがあるが、精度がいい割り切りが出たときには自分の中で荷が降りる感覚で心地がいい。

でもこの割り切りの弊害が生まれている。何もやらないことを正統化しようとし、なにか生み出そうとしている人に対して
「たのむ、、、成功するな!成功するな!」と思ってしまう。

『よし、成功してないね。
  ほーらね!やっぱ何もやらなくてよかった。』

と安心したいのだ。しかし何かしようとした人との間には経験という目に映らない成果が蓄積されているのに、自分と一緒だ!と思い込んでしまう。
この何かしなきゃなっていう感情は研究室の時よりも強くなってきた。ある種「仕事」っていうおんなじ荷物を背負いながらも工夫して何かを成し遂げる人がいるから焦る。前は研究を言い訳にし、割り切って焦らないようにしてたけど環境が変わって焦る。
でも何かすることに邁進するのではなく、割り切りの精度が上がってきてしまっているから客観的に制御しなきゃ。
誰も応援できないウチは自分の現状に満足してないことの裏返しだと僕は思う。そんな自分は嫌いだ。

 

話は少し変わるが、そう言えば最近。客観的に何か頑張ってると見られるクラウドファウンディングを立ち上げた先輩には何とも言えぬモヤモヤを抱えた。
クラウドファウンディング最終日を迎えて全然達成の気配がなく、僕は「ふーん。まあ需要ないよな。なんかやるのも大変やねぇ」とお得の安心を獲得しようとしていたところ、5年くらいLINEのやりとりがなかったその先輩から、クラウドファウンディングのこと。お金が足りないから支援して欲しいとの旨の連絡を受けた。そのLINEが来た時の戦慄とした空気感をまだ覚えている。この感情忘れてなるものかと思いスクショも撮った。
・・・ヤクザ。そりゃあ、ヤクザだぜ、、。

ほんとに共感して良いなって思ってたらもう支援してるわ!『クラウドファウンディングに協力して!』って聞こえは良いけど、結局相手が興味ないものに金を要求するってやってること変なマルチ商法だし、なんか支援しなかった方が悪って言うような環境。逃げづらい環境に自分の都合で相手を追い込んでる。まじでヤクザ!
なんか誠実じゃないと言うか。良心に訴えて金を巻き上げる。
まじで最低!って思いながらもそのたった3000円でその人との縁を切るまでのことでもないかなって思い支援してしまった。こんな応援できないクラウドファンディングがあって良いのか、、、。
きっとこの世の中にはそんなクラウドファウンディングが数多あるとみんなの頭のどこかに置いておいて欲しい。

簡単に言うと、『権力が強い同期の友達が企画する誕生日プレゼント用のカンパみたいなもの。』を想像して欲しい。さらに今回の場合は自分でそのカンパ企画して、自分のプレゼント買おうとしてんの!!どう!?みんな!どう!嫌じゃない!?最低でしょ!?

その後LINEで支援しました!と連絡。感謝の文と最近何してんの?って返信。ぜってぇ興味ねぇだろ。殺す。と思いながらも「〇〇ですね!!」と明るく最高の後輩で返信。
その後、返信はない。殺す。誠実さのカケラも感じない。傲慢。
こんな人でも成功した人の顔できるなら僕でもできるわ。うん。頑張ろかー

 

まあ僕の近況はこんなもんです。まじ言いたいことも言わないポイズン。