さむしんぐ〜何かしら〜

映画とテレビと本と旅と日々のいろいろをつらつらと述べます。写真も撮るよ。

まあぼちぼち頑張りますか。

 

少し前の話、年明けに中学校の友達と飲む機会があった。

そこで思ったことを述べようと思う。

 

宗教の関係で、地方に修行しに行っていた友達A

Aとは本当に久々に会えたから嬉しかった。

なぜか"乾杯"はできなかった。理由はわからない。宗教っていろんな事があるから聞けなかった。察したように乾杯はしなかったけど理由が聞きたくて仕方なかったことを覚えている。「自分の立場だったら聞かれたら嫌か」と自答し、聞いても嫌ではないと思ったが聞けなかった。やはり日本に置ける宗教の話は中々踏み込みづらい、、、。

 

友達が明らかなキリスト教だったら、堂々と「キリスト教って〇〇なの?」って聞けるが、日本の新興宗教に置いてはその作業が行えない。行いづらい。宗教について聞きづらい。

飲み会の中で近況を話し合い、みんなだらしないなという話の中で Aが「まあ俺は宗教やってんだけどな!笑」と自虐気味に言い放った。

その瞬間みんな何も言えず空気が固まった。

 

なんていうんだろう、Aも周りが気を使って宗教に触れてこないことに"違和感"を感じて周りに気を使い、良かれと思って言った言葉だったが笑えなかった

その気遣いが余計に場の空気を悪くした。決して自分の信念だったり大事にしているものを自虐的に使ってはいけないのだなと気付かされたのだ。それは自分に嘘をつくことで、周りも望んでないことだと。

そんな気を使った「自虐」を笑ってくれる友達なんか、友達をやめたほうがマシだ。

 

 

 

 

またその飲み会は、親が離婚した友達もいた。苗字は変わったがあだ名は変わらず「こば」

「こば」の彼女も飲み会にいたが、その彼女は「こば」を僕の知らない苗字で呼ぶ。私たちが無為意識に「こば」と呼ぶたびに、独特な気まずさが現れた。

でも俺たちにとっては「こば」は「こば」なんだ。

あの独特の気まずさは感じた事がなかった。

 

いろんな事があった飲み会だったけど、昔話を集まってみんなでする瞬間っていうのは本当にかけがえがなく、本当に幸せだった。

しかし一つだけ良い気分しない事があった。

自分はあまり運動神経がいい方でなかったから、中学の同級生は必ずいじってくる。

正直「こば」はそこまで仲良い友達と言える位置付けにもかかわらず、ガンガンいじってきた。その時だけ腹が立ったのを覚えてる。そして「こば」は私よりも運動神経がよくない。無性に腹が立ったが彼の彼女も同席していたから、突っ込むことをこらえた。

 

その怒りをココにぶつけたい。

 

 

お前そこまで仲良くないからな!!!!!!!!!!!!

 

お陰で自分が怒りを覚える基準がわかった。いい奴だと思っていたやつに「〜するからお前も来い」って命令口調で言われた時、人を探してる時に「俺ここにいるから探してきてよ」と命令された時にもイラっとした。あと初対面で「お前」って言われた時も殺したくなった。尊敬してない人に舐められるのが本当に嫌い。

自分が好きでない人に いじられる・上から来られる・命令される・気を使われない・ナメられる とき

に腹が立つと知った。

 

p.s.

自分が人を好きになる3つの基準

  1. 話が面白いかどうか
  2. 人に本当に優しく出来る人かどうか
  3. 行動が面白いかどうか

だと思う。このどれかに当てはまれば好きになる。尊敬できる。

行動が面白い人は1か2どちらかも兼ね備えてると思っており、面白い行動を意識的に起こせる人は本当に話が面白いし、天然で面白い人は本当に人に優しい。

仲良いやつに本当に優しくない奴がいっぱいいるけど、そいつらは本当に話が面白い。人を馬鹿にして生きている。スレて生きている。そいつらの吐く毒は僻みや嫉妬、ネットで自撮りをあげるような馬鹿な奴を本気で馬鹿にしていて清々しい。

それを公の場で言えば、リア充な真っ当にスレることなく生きてきた人達に淘汰されるを分かっているから絶対に口にしない。めちゃめちゃ馬鹿にするのに気を使うというこのアンバランス加減が本当に面白い。